昭和44年01月01日 朝の御理解



 御理解 第25節
 「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」

 皆さん明けましておめでとうございます。今年もいよいよ、より良い信心をさせて頂きまして、いよいよ神様のお心に添い奉りたいと思うのでございます。今朝御理解第25節を頂きました。この25節の中から、今年私共が頂かねばならぬ信心を頂きたいと思うのです。今朝私は御神前でこう頂きました。『より明るくよりにこやかに』。そこで御理解25節信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ一心と定めいと。
 「信心は大きな信心がよい」と言う事は、私は天地程大きいものはないと思う。天地の心を心としてより豊かにより大きくと、昨年一年間私共は、その信心にあらゆる御教を、そこに合わせて参りました。そこに焦点をおいて参りました。そしていろんな場合にのぞんだ時に、ここで大きゅうならにゃなら、ここでいよいよ豊かにならなければならない。と云う思いで信心させて頂いた。言うならこれは私の一年のあり方をささえてもろうた御教えでした。
 その御教が、昨夜の除夜祭に頂きますと、それが飯台がわりと仰る飯台というのはテーブルのいわゆる大きなままになる台と云うのです。何と言うても、これが信心の基盤になるもの基礎になるもの、ここをぬきにしては駄目。その信心を基盤として、今年は『より明るく、よりにこやかに』もういよいよおかげを感じますですね。こうゆう心にならなければ、おかげは受けられません。暗い所に決して影は映りません。明るい所に影が映じます様に、もう今年のこの信心はおかげですね。
 昨年の信心を基盤として、云わばそれは飯台だと、先日頂きました。あの偉大な応接台を昨日のお祝詞の時頂くのです。たくさんの人があそこで一緒にままになれ、昨年の信心が、言うなら飯台作り、ままになる土台、あれで完璧と言う事ではありませんけれど、あれが、なんとはなしに血になり肉になったとして、そしてそこから一般と高度な信心を目指して頂こうと願わして頂きよったら、「いよいよより明るく、よりにこやかにあれ」という訳です。
 ところがこれは大変な難しい事ですねぇ。さあにこにこしなさいと言うても、出来るもんじゃありません、さあ明るうなりなさい、明るうなりなさいと言うても、もう心が沈んで沈んでどうにもならない。自分で自分の心をもてあますごと自分の心がじめじめしてくる。暗くなってくる。さあ朗らかになろうと酒でん飲んで、おもしろい映画やお芝居でも見てからでも心を晴らそうと思うけれでも、見ておる時だけ飲んでおる時だけ、あとはなお心が暗くなる。人間の心と言うものはその様にデリケートなもの。
 ですからより明るくと言う事は大変難しいことが分かります。そこでですね、もういつもいつもこれに心掛けさせて頂いて、暗くしない、精進というものが、なされなければならんのです。うかつにしとったら、もう心は暗い方へ傾いてゆくのですからね。しかもそれが、にこやかにしておれると言う事は、いよいよ私は難しいことだと思うのです。そこで信心は「大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」とおっしゃる。昨日の朝のご理解に、天地と言う事を頂いた。
 「運命を愛し、運命を生かす」という、中山亀太郎先生のこれはお言葉ですけれども、その事と私が頂いておる「天成地」というご理解で併せて頂きましたですね。もう信心はこれに定まった、これに極まったと云うのである。天の心を心としてそれには大地の信心というか大地にひれ伏した泥の様な信心というかねぇ。もうこれに極まった。天の恵みは限りがない。それを地の信心によって水も漏らさぬ受けとめ方をできるおかげを頂こうというのである。
 そこに自分の運命を愛すると言う事がなされなければ、そこから運命を新たな生かし方が出来る。いわゆる新たな展開になっていかない。よい運命の展開になっていかない、と云うのでしたね。昨日の朝の。ですから「信心は大きな信心がよい」もうこれは天地より大きなものはないから。次に「迷い信心ではいかぬ。一心と定めい」というておられます。これは御理解25節を様々な角度から頂きましたが、今日のここの所は大変違うのです。迷い信心ではいかぬ一心と定めい。
 何様にも参りゃ何様にも拝む、そういう信心じゃいけんという意味じゃなくてですね、迷い信心ではいかんと言うのはね、私共がね、ここをこうすりゃおかげを頂く、と言う事が分かっておるけれども迷うとるでしょうが。ここがこう改まりゃおかげを頂くことは分かっておるけれども日参でもすりゃおかげ頂くことは分かっとるけれども、ところが迷うとるから、いわゆる踏ん切りがつかん、そこん所を一心というておられる。「一心と定めい」これだけは、と一心と定める所から出来ないことが出来るのです。
 ここん所はね、「迷い信心ではいかん。一心と定めい」というのはその事。又の御教をここに引用するなら、「天地日月の心になること肝要なり」とおっしゃられます。信心はおきな信心が良いと、天地日月の心天地の心、まぁ言うなら去年取り組んできたのは、天地の心だと思う。今年取り組ませて頂こうとする「より明るく、よりにこやかに」という明るくという字は、日月と書いてある。日月と書いて明るくと読む。ですから今年は、その日月の心になること肝要なりである。
 明るくなる為には日月の心にならなければ出来ん。そんなら日月の心とはどういう心か、日月の心、そのことがもうすでに明るい心。夜でもお月様が出てござる時には、昼をも欺く様に明るい、そこに影が映る、お天とう様のお照らしのある日はいよいよ明るい。それを雲が遮ったりする所に、日陰が出来る。暗い所には、影が映じないように、これではおかげは受けられない。
 日月の様に明るい、日は月のはじめじゃによってともおっしゃる。日々その日々が365日続いて一年間、どこにその365日の焦点が置かれてあるかと、どこに一心を定めるか、日月の心になることに一心を定める。日月の心というのは、どう言う様な生き方というか、どういう様な在り方を日月の心というのであろうかと、これが定まる、それが定まる、だからその所へ、いわば一心と定めて、そこに一心と決めるのである。日月の心と云うのは、節を大切にする心、一日のうちにでも何回となく節がある。
 それを有難く合掌して受けるんだと一心に定めておく心なんだ。そういう信心から私は、影が映じないような暗い心やらは起きてこないと思う。例えば困った事があった。その自分には分の悪い、自分に都合の悪いと言う事になったら、今迄にこやかにあったのが一遍に暗くなる。それはうかつにしておるから。けれども日々どういう節があっても、どう言う事があっても、それを合掌して受けるんだと一心に定めておくもっというたら、それがおかげの元になるんだと思い込んでおく、どっこいといつも受けられる心。
 天地の心がいわば大きな心なら、日月の心というものは、細かい1日の中に次々に起きてくる、その問題そのものをその時その時のなりゆきそのものを大切にするという心が、日月の心ですからそれを、一心と定めておかんといかん。ここの所をです、誰がどういおうと誰がどうしようと、どう言う事が突発的に起きてこようとです、それをどっこいと受け止めさせて頂くそれが信心だ。それが日月の心になることだと、一心と心の中に定めておきますとですね、暗くなろうとする前に元気が出てくる。
 元気が出てくると、例えば、暗い雲が降りてきておっても、それを押し上げるような働きというか、力が湧いてくる。 いわゆる元気な心である。元気な心の中には、暗い心がない。今日は御理解25節の「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかん。一心と定めい」と云う事を今日は「より明るく、よりにこやかに」と頂いた。その心とでも申しましょうか、又はそのより明るく、よりにこやかにいつもあることの為にです。お互いが大きな信心を目指さなければいけません。
 同時にです、天地より大きなものはない、そこで天地の心を心としてと云うように、去年一年勉強した信心を身に付けながら、そして今年はいよいよ「より明るく、日月の心になる事肝要なり」とおおせられてありますから、ここの所を私は日月の心をもっておかげを頂こうと一心を定める。迷い信心ではいかんとおっしゃるのは、あちらに迷い、こちらに迷いと言う様な意味で、いつも頂くのですが。
 今日の場合は迷い信心ではいかん金光様の信心を何十年しとってほかの何様を拝んだこともないという。それだけじゃない迷い信心と言うのは、自分の心の中に、踏ん切りが付かない心、今年こそはと思うておる心、こうありゃおかげを頂くことは分かっておるけれども、思いながら踏ん切りが付かない。その踏ん切りを付けていくこと。成そうと思って成されない所に、迷いがあるから。
 そこに一心と定めいとおっしゃるこの1月1日を期して。そこの所に一つ一心発起するのだ。そしてこれだけはというものを、ここに一つ定めさしてもろうて、いよいよ今年の信心に取り組みたい。このことについては、また繰り返し、または様々な角度からいよいよ明るくなる為に、いよいよにこやかにおかげを頂けることの為にです。教えて頂くことであろうと思います。ですからまず一つ、ここん所を私共の今年のスローガンとして、なぜ神様が去年飯台を作らせなさったんだろう。
 いよいよ大きく豊かな心になることに本気で努めさせて頂いたら、もう本当に様々な<おかげが頂ける。「信心は大きな信心がよい。 迷い信心ではいかぬ。 一心と定めい」より明るく、よりにこやかにならして頂く為にです。この御理解の内容を頂いて、神様がこうゆうおかげを下さろうとする、そのおかげが、はっきり映れる様な、明るいにこやかな受物を持って、おかげを受けていきたいと思うのです。
   どうぞ。